FLIER in Dark and Sensitive Room, Hours from Dawn to Dusk till Dawn

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風立ちぬ

 僕の暗室仲間である4名の友人…

 中心人物は、E氏で彼の職業は商業カメラマン。そして古めかしいカメラ屋を
営むF氏、ここまでは既に書いた。

 そして3人目がE氏の仕事仲間であり、同じカメラマンであるA氏(中立包容方)
と、最後の1人が主にブライダルその他を扱う写真スタジオの専属で仕事をして
いるW氏(前進戦闘方)である。

 W氏の話、、

 僕がある友人の結婚式に出席した時、彼がそこに仕事で写真を撮りに来ていた
のが、知り合うきっかけだった。

 これまでにも様々な知人の結婚式に出席してきたが、自分も写真をやっているので
勿論の事、そこで商業として写真を撮っている人に興味がない筈は無い。

 しかし彼らはえてして、主役ではない只の列席の僕らに対しては、あまり親切
では無い。

 あ、いやこれは当然の事であり、別に恨みに思ってる訳では無く、、中に必ず
数人はいるであろう、写真好きやカメラ好きの出席者が、彼らの仕事の邪魔に
なりやすい事は、あまりにも明白に想像できるので…

 だから僕などは、つい長目焦点のf2かなんかで遠巻きにありきたりな写真を
撮る事なども多かった。いや実際こう記述してみると、対価を頂いてる訳でもない
そんな本格的な披露宴やなんかの時は、写真機なんて一切持っていかない方が
マシなので、これからはそうしよう…

 まぁそれはそうとそんな結婚式などで、これまで僕が見かけた彼らのような
カメラマンは、全て全員が、本当に格好良いと言う話。

 どんな業界でも、その筋の専門家がプロとしてその仕事を遂行している現場姿と
言う物が、ほとんどの場合無条件に格好いいと言うのは、多くの人が認めるところ
だとは思う。

 しかしそんな彼らの、シャッターを押すという行為のスッキリした歯切れの良さ
と潔さには、僕はほとんどの場合しびれてしまう。

 余計な付帯条件のない、完全に独立した行為としての写真撮影という物が、僕など
にはとてもクールで格好よく感じてしまうのだ。

 だからその素早い仕事振りをいつも羨望の眼差しで見ていたのだが、W氏にしても、
これまた例に漏れずかっこいい、見るからに有能そうなカメラマンだったのだ。

 幸運だったのは、そのW氏が新婦の友人でもあって、僕も出席した2次会に、仕事
を終えてやってきた事だった。

 僕が紹介もされないのに、直ぐにビールを持ってその日の業務を労いに行くと、
彼は僕が披露宴の最中手にしていた、コニカのレンジファインダーとズマリットの
組み合わせをなんと覚えてくれていて、それを話題に出してくれたので、我々はいとも
簡単に2人の世界で、様々な写真話に没頭した。

 後から新婦が、あなた達は知り合いだったのかと、驚いた様子で聞きに来たのだが
そうではないと言うと、それじゃなんでそんな勝手に盛り上がってるの、、みたいな
感じでよけい気持ち悪がられてしまった程だった。


 その日の深夜零時過ぎ、したたかに酔った我々の会話…


「マロリーって、知ってますか? ジョウ君…」

 彼は今もそうだが始めて逢った日から、僕の事をこう呼んでたようだった。

「マロリー…ですか!? 登山家の話じゃないですよね…
解らないけど、有名な写真家か誰かですか?」

「やっぱ知らないかぁ、、僕が尊敬してるフランスの詩人なんですよ、
 ~風立ちぬ、いざ生きめやも。~  っていう詩を残した人なんです。」


 嗚呼、この人は「ヴァレリー」の事を言ってるんだナ…とは、直ぐ分かったが…

 しかもそのフレーズは、堀辰雄が「風立ちぬ」という自分の小説で、ヴァレリーの
散文詩からその一節を引用し、自ら独創的に訳した物であって、厳密に言うとその訳文
は、語尾の言い回しにおいて正反対に間違っていたのだ。

 いやしかし、そんなウンチクは、その場では無用だった。

 第一、その時の僕の思考において、「生めやも」だろうと「生き続けねばならぬ」
だろうと、どちらにしてもそれらの意味合いについて、実践的に感じ、また語りつつ
説明するほどの日本語知識があった訳じゃなく、ただ本で読んだ知識の断片が頭に
あるだけだった。

 それにしても、その時改めて感じた、「風立ちぬ、いざ生きめやも。」という…
なんとも素晴らしき、現実の何処かにありうるサナトリウム文学的風景を想起させ、
またそれに対峙する、ある架空の当事者をイメージしてしまう雄弁な一節…

 それを再認知させられた事は確かだった。

 そしてそれよりも何よりも、超現実的な職業写真家である彼のような人が、それが
酒の席の単なる小ネタの一つとは言え、「風立ちぬ、いざ生きめやも。」的なフレーズ
を少なくとも心のどこかに秘め、仕事の最中にたまにそんな感傷が浮かび上がる事も
あるんだという事自体が、なんとも言えず僕を暖かい気分にさせた事は確かだったのだ。

 だからもうマロリーだろうと、ヴァレリーだろうと、堀辰雄だろうと、何でも
構わなかったのである。



 Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
                 「Le cimetière marin」1922  Paul Valery



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「Life in Sanatorium」2009 Toshifumi Jodai


by flierone | 2010-05-27 16:58

26+@=49

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 僕は意外と、49冊の写真集を持っている。

「意外と」というのは、26冊くらいしか持っていないと思い込んでたので、自分として
その数が意外だったと言う事。

 しかし何故にいきなりこんな冒頭に、その数の話をしようと思ったかと言うと先日整理の
最中に、たまたま気が向いてそれを数えたから頭にあった、というだけの事なのだが、
ふと思ったのが、普通に言ってそれが多いのか少ないのか、どうなのだろうという話。

 こんな話を客観的に語るほど馬鹿々しい事はないので、あくまで主観的に言うと
ここ数年の自分の行動を見返した時、アレやコレやの写真機を使って、巻き取ったり、
浸したり、乾かしたり、読み込んだりして、あらゆる意味合いにおいての「写真」という
ものを作り出し、ネットやギャラリーを初めとした様々な場所に、自分の一方的表現として
やりたい放題に提示ばかりしている割には、20世紀の100年間位に世界中で発表された
星の数ほどの写真作品の中から、たったの49冊分しか実際に所有していないと言うのは、
呆れるほどに傲慢な話かも知れないな、、などと一瞬考えたりするのだった。

 しかし、今現在も欲しい写真集は何冊もあるのだけれど、どこぞの宗教団体が発行する
啓蒙冊子のように、道をふらっと歩いていて呼び止められ、無理矢理手渡されそうになる
ようなものとは違って、然るべき代金を支払わなければならないので、そう右から左へ
と手に入れる事は出来ない。

 もう一つの考え方として、これらの写真集の代金を足し合わせた金額と、今自分が
使用している主要な写真機材の金額が、ほぼ釣り合いそうなのでコレでよろしい、、
という、脈絡は不足してるのだが、自分的には納得出来る考え方もある事はあるので、
まぁ結局は行き当たりばったりでコレまで通り、というところに再度落ち着く訳だ。



 ところで写真集というものは、それぞれがそのページ数やサイズなどが自由奔放である
が故、全くもって綺麗に収納する事が困難な物体なのである。

 然るに、常に一冊一冊を気侭に引っ張り出す事が出来、且つ時には簡単に埃などの
掃除が可能な状態で収納する事がかなわず、ついある程度は全く放りっぱなしでも
傷んだりする事が無い様な暗い場所に、直し込みがちなのだ。

 それでもどの辺にどんな写真集が収納されているかは、自分としてはよく頭に入って
おり、気が向いた時(実際、年に一度か二度)は直ぐ目的の物を取り出せるようにはなって
いる。

 49冊目に購入した写真集は、Lillian Bassmanという写真家の本だった。

 僕はこのLillian Bassmanという、現在90歳を超える女性写真家の写真を30年近く前
から知ってはいた。

 中学生の頃、ジャンルを問わず写真雑誌に興味があった僕がよく通っていた書店の洋書
コーナーで、海外のファッション雑誌をパラパラと捲っていた時に目にした、帽子を被った
モデルの、凄いハイコントラストのモノクロ写真が、とても目に焼きついて離れないと言う
出来事があった。

 その当時は、写真そのものの良し悪しなど見る目どころか、意識さえあった筈は無く、ただ
海外のファッション雑誌のきらびやかさに、うっとりしていたといえばそれだけなのだが、
しかしそのモデルに施された、陶器のような質感の肌に対する濃いアイシャドーが補強する
写真全体のコントラストから、僕は造形としての女性という存在を、始めて意識しだしたのかも
知れなかった。

 そして普段、坊主頭で野球に勤しむ僕に最も似つかわしくない秘め事として、洋書の
ファッション雑誌立ち読みはそれからも続いていったのだった。

 その写真と写真家の名前が一致したのは、ずいぶん後の事だったが、自分が本格的に写真と
言う物を認識し始めた時には、この女史は既に一線を退いておられ、21世紀の到来前夜
くらいになって再評価され、回顧展なども開催されたようだ。
by flierone | 2010-05-13 19:49

皮脂性頭頂部


 「ドラム缶」という、物体を指す名詞としての言葉自体が持つ日常性の程には、僕はドラム缶
を日常的に目にするわけではありません。

 だからそれが二つ並んでいたりすると尚の事、ふと気付いてしまった時の非日常性は増した様
に見えてしまうのです。
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 この物体について想像できる事は、その最初の使用目的が完了した際、我々が飲み終わった
コーヒー缶を棄てるのと同じようには棄てられてはいないだろうと言う事や、あるいはコーヒー
缶と同じように普通に回収され、リサイクルされているだろうとかいう、その役割の終わりの
部分に関してだけで、始まりの部分に関してはほとんど想像がつきません。

 いったいどんな用途の為に、年間どれくらいの個数を、誰が生産しているか、等々…

 いや、そもそも僕はドラム缶に限らず、それ程簡単に疲労消耗するように見えない、世の中の
自動車を初めとした、金属製またはその他様々なマテリアルの品々の多くが、始まりの部分に
おいて何故にそれ程大量生産されなくてはいけないのか、どうしても理解出来ない事が多いので、
「エコ」と言う言葉が持つ事後処理的、或いは辻褄合わせ的な意味合いを含んだ日常性が嫌い
なのです。



 とか言う事を、わざわざ黄金週間の最終日に考えるのもどうかとは思いますが…


*****


 黄金週間と言えば、福岡では博多どんたく…

 このイベントは僕にとってはあまりに身近過ぎる(地理的に近い事と、10年くらい前に
市役所勤めの友人から強制的にパレードに参加させられて、死ぬほど恥ずかしい思いをした事が
ある)為にかえって縁遠く、見に行った事もほとんど無かったのですが、今年は気が向いて見に
行ってまいりました。

 福岡県人の間では、このイベントの当日は必ず雨が降るという事で有名なのですが、今回は
通して奇跡的に晴れだったせいもあるのかも知れないですが、人出の多さが只事でありませんでした。

 会場の天神地区には何箇所もに、イベントステージが設置してあって、色んな市民の皆さんが
当日受付有りで、歌や踊りや楽器などの様々なパフォーマンスを繰り広げるのが、このイベントの
主体なのです。それはもう信じられないほどに自由気ままなパフォーマンス内容ですので、見る側
にも独特の気分的チャンネル設定が必要になります。

 それにしても、昨今、何かに憑依されたように踊りまくる、小中学生くらいのちびっ子女子グループの
多さ、、もう少々見飽きたなぁ、なんて思ったり思わなかったりしながら見ていたのですが、大体において
見えていた光景はこんな感じでした、、
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by flierone | 2010-05-05 16:40